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<<   作成日時 : 2006/12/26 00:33   >>

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「デリダの遺言」(仲正昌樹)
問題 生きた言葉のエクリチュール性が意識されないとどういう弊害があるか?
問題に対する答え
生きた言葉はエクリチュールによって表象再現される事によって益々「生き生き」と見えるが、実際はエクリチュールという「死んだ」文字によって表象再現されるから
「生き生き」と見える(見えるだけで実際はエクリチュール無しの生き生きした言葉の自然発生はない)というねじれ現象になっている
これを無視して「生き生きした言葉」自体を求めようとすると、益々エクリチュールにより規定されて、益々「生き生きした言葉」から遠ざかる
「生き生きした言葉」を「近代以前の無媒介的に通じ合っていたゲルマン共同体」と解すと、ゲルマン共同体を取り戻そうとしてかえって近代的な方法で大量虐殺を行ったナチスドイツ、「資本やお金に媒介されない労働者の天国」と解すと、計画経済のもとでかえって労働者を抑圧したスターリン主義へと陥ってしまう(求めていた理想とは程遠いものになる)

芸術の話としては
ファンタズマゴリー(資本主義の発展により失われた「生き生きしたもの」へのユートピア幻想は、逆説的に利用されてかえって資本を自己増殖させるという特徴)の中で変貌し続ける都市から、排出されるガラクタを観察することで、生き生きした自然に戻ろうとしてかえって遠ざかる人間のねじれた欲望を描き出そうとしたというベンヤミンの話が面白かった

心情サヨクとして気をつけようと思ったのは

抽象的で精緻化された客観的真理を追究するより、「生活」に密着した原理的思考の方が「絶対的真理」と思い込む、日常性に根ざした生き生きした発想をしがちである事
(しかしその「生活」とは何かについては、かなり恣意的で曖昧)

自分たちの真理は宗教のように独善的なものではない「正義」と確信して、それを伝えるためには多少事実を捻じ曲げたり、反対の声をかき消す事も許されると考える事

援助交際の女性やホームレスなど社会的弱者をとりあげるのも、清純アイドルや庶民派タレントを作り出すのと同様「資本」と言う制度に依拠しており、「生き生きした言葉」を死んだ文字や映像へ加工することで、「生き生きしたもの」を求める庶民(「生き生き」が庶民には欠如しているから)を相手に商売しているだけと自覚し、新興宗教のようにそれを絶対的真理として消費者におしつけるのはやめる事

「庶民」の本来の「生き生き」した姿を固定的にとらえ、現実の「庶民」がそのイメージからはずれると、支配階級のイデオロギーに毒されていると考えがちな事

自分自身が「生き生き」していないので、自信が無く不安で、その不安を埋めるために、自分の目の前に無い「生き生き」をユートピア的に理想化する。不安になるほど
どこにも無い「生き生き」に固執する。しかし固執して「生き生きした言葉」を語るほどエクリチュール化された言葉では決してとらえられないはずの「生き生きしたもの」から遠ざかる傾向

「生き生きした庶民」の生活を守るためにはブルジョワは殺しても仕方ないと考える傾向。
しかもそのブルジョワの範囲は庶民の為に闘う人の都合で際限なく広がる
さらに闘っている人が共感できる「生き生きした庶民」の基準も恣意的で曖昧で、多くの場合、この共感は自分たちの献身的な姿にうっとりしているだけで、相手が本当に社会的弱者である「生き生きした庶民」であるかは問題としない
このような共感は、党派的で偏ったものであると自覚しないと、「絶対的正義」のもと「弱者」をいじめる「強者」を抹殺しても良い話になってしまう

全体的にかなり反省させられた。自分の思い込みを絶対的真理と勘違いして他人に押し付けようとするのはやめた方が良いと心底思った。

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